昭王は、なぜ范雎を信頼したのか?  第六話


前回、白起(はくき)自刎(じふん)させられた経緯(いきさつ)を書いた。

白起(はくき)は、生粋の秦人で、昭王(しょうおう)が幼い頃より、戦場で働いていたのである。

にも拘らず、なぜ、昭王は、余所者(よそもの)范雎(はんしょ)の方を信頼したのか?


范雎は貧しい家の()の人で、中大夫(ちゅうだいふ)に仕えていたが、嫌疑をかけられ、命からがら脱出。

友人の鄭安平(ていあんぺい)に頼んで、秦へ亡命した。


当時、秦の宰相(さいしょう)穣侯(じょうこう)魏冄(ぎぜん)で昭王の母・宣太后(せんたいごう)の弟であった。

穣侯は絶大な権力を誇り、名将の白起を使って周囲の国々を討って領土を獲得していた。

しかし、その領土は穣侯や華陽君(かようくん)高陵君(こうりょうくん)涇陽君(けいようくん)などの一族が握ってしまい、その財産は王室よりも多かった。

要するに、昭王は名ばかりで、穣侯・魏冄が実権を握る摂政(せっしょう)政治であった。


一年後、范雎は、昭王に意見を聞いてくれるように訴えた。

范雎は、まず外事について「遠交近攻策」を説いた。

この進言を受け入れ、成果を上げた昭王は、范雎を厚く信任した。

勢い范雎は、穣侯たちを排除しなければ王権が危ういことを説いた。

そして、朝議の場で、穣侯たちが昭王を軽んじ私腹を肥やしていることを面罵した。


我が意を得たり!

昭王は白起を取り込むと、太后を廃し、穣侯一族を追放した。

こうして王権を確立した。


昭王にとって、范雎は、間違いなく懐刀(ふところがたな)の左腕であった。

しかし、白起も軍事を司る右腕であった。

(まさ)に、范雎と白起は車の両輪であった。

それなのに、なぜ、白起の意見を尊重しなかったのか?


【解説】

 昭王(しょうおう)・・・チャイナ戦国時代の秦の第28代君主。第3代の王。在位前307~前251年。
    昭襄王(しょうじょうおう)、秦昭王とも呼ばれる。
    姓は(えい)、諱は(しょく)。始皇帝(嬴政)の曾祖父。(系譜


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