白起は、なぜ自刎したのか?  第五話


チャイナ、春秋戦国時代。

秦国の昭王(しょうおう)(始皇帝・嬴政(えいせい)曾祖父(そうそふ))の頃。(系譜

秦国が、七大国の中で最強となる(いしずえ)を築いたのが、この昭王。

そして、名将・白起(はくき)が大いに貢献した。


白起を語るに欠かせないのが、趙軍(ちょうぐん)の投降兵四十万人を生き埋めにした逸話。

自軍にすら配給する食料に事欠いていたとは言え、残酷な話である。

この暴虐が後々の戦に大きな影響を与えた。


天下統一を目指す昭王は、白起に大国・趙を攻めさせた。

秦軍は、趙軍を破りに破って、首都・邯鄲(かんたん)に迫った。

ところが、宰相(さいしょう)范雎(はんしょ)は、趙から百金の賄賂を受け取り、更に、白起の活躍で己の地位を失うことを(おそ)れて、邯鄲攻めを中止させた。

白起は、千載一遇の機会を失うと反論したものの、不承不承、命に従った。

しかし、納得のいかない白起は、以後、出陣の命が下っても、従わなかった。


仕方なく范雎は、恩人の鄭安平(ていあんぺい)を将軍に推挙して行軍させた。


片や趙軍は、一息吐(ひといきつ)いて態勢を立て直すことが出来、()()の二国とも連携して秦に対抗した。

捕虜四十万人を生き埋めにされた遺恨が、趙軍を強くした。

劣勢になっても必死で抵抗し、投降しなくなったのだ。

更に、白起の居ない秦軍は(あなど)られた。


案の定、鄭安平(ていあんぺい)率いる秦軍は敗れ、二万の兵と共に趙へ降ってしまった。

秦では、敵に投降すると、兵の親族一同斬首(ざんしゅ)される掟があったにも拘わらず、鄭将軍は投降させたのだ。

将軍に推挙した范雎は面目を失った。

その上、范雎を昭王に紹介した王稽(おうけい)が他国と通じた罪で誅殺(ちゅうさつ)された。

これらの失態で、范雎は、昭王に自らの罰を請うた。

しかし、昭王は、連座の罪を不問に付したのだ。


范雎は白起に頭を下げて出陣を請うたが、白起は横眉怒目(おうびどもく)して面罵(めんば)した。

邯鄲攻め中止の背景を白起は知っていたのだ。

范雎は逆恨(さかうら)みし、毒吐(どくづ)いて帰った。


范雎は昭王に、白起が謀反(むほん)を起す(おそ)れがあると説いて斬首(ざんしゅ)を懇願した。

昭王も、自ら出向いて出陣を要請したにも拘わらず従わなかったので、腹に据えかねていたのだろう。

遂に自刃の命を下した。


  このときの朝議で、丞相・范雎は叩頭懇願(こうとうこんがん)し、文武百官も同調して叩頭した。

  昭王は苦悶(くもん)し、仕方なく、涙を呑んで、命を下す・・・

  と、毎度毎度の猿芝居。

  お決まりの儀式を行う。あははは


王剣を受け取った白起は、

「賢者を得るのは覇業(はぎょう)より難しく、賢者を用いるのは得るより難しい。だが最も難しいのは、賢者を信じることである。」

と言い残して、自刎(じふん)した。


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【解説】

 昭王(しょうおう)・・・チャイナ戦国時代の秦の第28代君主。第3代の王。在位前307~前251年。
    「昭王」と呼ばれる王は時期は異なるものの他国にも居り、区別する為に、昭襄王(しょうじょうおう)、秦昭王とも呼ばれる。
    姓は(えい)、諱は(しょく)。始皇帝(嬴政)の曾祖父。

 鄭安平(てい あんぺい)・・・戦国時代、七大国の一つ・魏の出身で後に秦、更には趙に仕えて武陽君の名を賜った。


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