漢文とは何か その3


 日本人がチャイナの漢文を読むとき、訓読します。

 訓読とは、漢字の読む順番を入れ替え、「テニヲハ」を加え、日本語として読める様にすることです。


 チャイナの言葉なのだから、チャイナ語を習得して、そのまま理解すれば良いではないか。

 態々(わざわざ)、訓読する必要は無いではないか、と言う意見は古来からありました。


 しかし、現代のチャイナ人が、古典を理解できるか、というと、簡単ではない。

 大学へでも行って、勉強しなければ理解できない。

 我々日本人が、『伊勢物語』や『源氏物語』などの古典を原文で読んで、直ぐ理解できないのと同じですね。

 註:国語審議会による漢字制限及び「現代かなづかい」などの政策で、何百年も受け継がれて来た古典を読めなくしてしまった。いかに愚かな改悪であったか、明かである。愚かならまだ可愛いが、これには日本語のローマ字化という悪意があった。


 ところが、我々日本人は、訓読を学べば、一挙にチャイナ古典を理解できる様になる。

 訓読は、古代から連綿と受け継がれてきた日本人の叡智であり遺産である。

 と、大東文化大学の某教授が書かれています。

 是非、一読あれ。



【大東文化大学の某教授の授業用備忘録から一部抜粋】


『漢文訓讀指南~訓讀乃色葉~』

 ~授業用備忘録~

 《卷 之 上》


*何故訓讀を學ぶのか


 訓讀と言う方法は、平安朝以來の日本人が、中國古典文の原型を保ちつつ、同時に如何なる内容であるかを理解する爲の方法として、營々として努力を重ね叡智を集めて考え出した、中國古典解釋の爲の方法・技術なのです。

 例えば、我々日本人は日常的に日本語を使っていますが、だからと言って、日本の古典である『伊勢物語』や『源氏物語』を原文で讀んで、直ぐに意味が理解されるでしょうか。やはり大學などで日本古典學を専攻して、初めて理解される様になるのではないでしょうか。

 とすれば、中國古典も同じではないでしょうか。

 中國語を中國の人と同じようにマスターし、更に中國語で中國の古典學を専門的に學び、其処で初めて中國語で讀んでも瞬時に古典的意味が分かるようになるはずです。中國語と中國語に因る中國古典學とを、同時に操れる様になるには、大變な努力と時間を必要とします。

 しかし、訓讀法は、其の努力と時間を過去の日本人達が費やして確定させてくれた、中國古典を解釋する爲の方法なのです。


 要するに、「漢文訓讀法」とは、日本人が中國古典文を解釋する爲に編み出した、日本人としての「方法・技術」であり「叡智」であり、同時に過去の日本人が、如何にして中國古典文を理解し様として來たかの「遺産」でもあるのです。

 此の様な意味に於いて、日本人が日本で中國の古典文を學ぶ時、「訓讀」と言う方法を學ぶと言う事は、單に中國古典文を理解する爲の方法を學ぶと言う事だけではなく、日本人の思考や日本の文語文を理解する上でも、大きな意味と意義を持っていると考えます。

と同時に現代では、中國古典を理解する上で、單に「訓讀法」だけではなく、中國語やその文法などの修得が必要である事は、今更多言を要するまでも無い事でしょう。


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全文は『漢文訓讀指南~訓讀乃色葉~』のホームページから。



【解説】

○文言文(ぶんげんぶん)・・・チャイナにおける文語文。「書き言葉」の意。「話し言葉」は白話という。古文ともいう。

 先秦時代にはかなり固定化し、共通語の役割を果すようになった。

 口語とはかけ離れた知識階級の文学用語として、二十世紀まで大きな力を占めた。

 日本で通常「漢文」と称するチャイナ古典文がほぼそれに相当する。

 なお、文言(もんごん)と発音すると、「文章や手紙の中の言葉」という意味になり、文言(ぶんげん)と異なる。


○文語(ぶんご)・・・文字言語、書き言葉のこと。口語の対。

 場面に依存することが少く、推敲しながら書くために、話し言葉に比べて不整表現が少く、硬い表現が用いられるのが普通。

 日本では、現代語に基づく口語文と、言文一致以前に用いられていた平安時代の文法に基づく文語文とがある。

 文語体(ぶんごたい)には、候文、普通文、擬古文、和漢混交文などがある。


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