春本版『四畳半襖の下張』(よじょうはんふすまのしたばり)
註:ルビは参照文献のままのものは旧仮名遣い。現代口語のルビは私が付けたものです。
全文 その1
『四畳半襖の下張』
金阜山人戯作
《著者》
今年曝書の折ふと廃簏の中に二三の舊藁を見出したれば暑をわすれんとて浄書せしついでに
この襖の下張と名づけし淫文一篇もまたうつし直して老の寝覚のわらひ草となすになん
大地震のてうど一年目に当らむとする日 金阜山人あざぶにて識るす
《山人》
さるところに久しく売家の札、斜に張りたる待合。
固より横町なれども、其後往来の片側取ひろげになりて、
表通の見ゆるやうになりしかば、待合家業当節の御規則にて、
代がかはれば二度御許可になるまじとの噂に、
普請は申分なき家なれど、買手なかなかつかざりしを、
こゝに金阜山人といふ馬鹿の親玉、
通りがゝりに何心もなく内をのぞき、
家づくり小庭の様子一目見るなり無闇とほれ込み、
早速買取りこゝかしこ手を入れる折から、
母家から濡縁つたひの四畳半、
その襖の下張何やら一面にこまかく書つゞる文反古、
いかなる写本のきれはしならんと、
かゝることには目さとき山人、
経師屋が水刷毛奪ひ取つて一枚一枚剥しながら読みゆくに、
これやそも誰が筆のたはむれぞや。
【解説】
著者(永井荷風)、金阜山人、古人(主人公)の三者が入れ子構造で話が構成されており、
話し手を、それぞれ、《著者》、《山人》、《主人公》 と小文字で示す。
話の大半は「古人」の主人公であり、ページに話し手を示していない場合は、主人公である。
〇金阜山人(きんぶさんじん)・・・古家を買った人。架空の人物
〇古人(こじん)・・・古い人と言う程度の意味。架空の人物。主人公
〇戯作(げさく)・・・戯れに書かれたものの意。通俗小説の総称
〇舊藁=旧稿 (きゅうこう)・・・以前に書いた詩や文などの草稿。ふるい原稿
〇浄書(じょうしょ)・・・下書きなどをきれいに書き直すこと。清書
〇大地震(おおじしん)・・・大正12年に発生した関東大震災のこと。
〇濡縁(ぬれえん)・・・雨戸の敷居の外側に設けられた雨ざらしの縁側
〇文反古(ふみほうご)・・・不要になった手紙。古手紙
〇経師屋(きょうじや)・・・表装をする職人。または、女を手に入れようとする狙う人をさす俗語。