『蘆刈』 著:谷崎潤一郎 より一部抜粋 赤字が出題された箇所
わたしは、さあこちらの船へ乗って下さいと洲のもう一方の岸で船頭が招いているのを、
いや、いずれあとで乗せてもらうがしばらく此処で川風に吹かれて行きたいからとそういい捨てると
露にしめった雑草の中を蹈みしだきながらひとりでその洲の剣先の方へ歩いて行って蘆の生えている
汀のあたりにうずくまった。
まことに此処は中流に船を浮かべたのも同じで月下によこたわる両岸のながめをほしいままにすることが出来るのである。
わたしは月を左にし川下の方を向いているのであったが川はいつのまにか潤いのある蒼い光りに包まれて、
さっき、ゆうがたのあかりの下で見たよりもひろびろとしている。
洞庭湖の杜詩や琵琶行の文句や赤壁の賦の一節など、長いこと想い出すおりもなかった耳ざわりのいい
漢文のことばがおのずから朗々たるひびきを以て唇にのぼって来る。
そういえば「あらはれわたるよどの川舟」と景樹が詠んでいるようにむかしはこういう晩にも
三十石船をはじめとして沢山の船がここを上下していたのであろうが今はあの渡船がたまに五、六人の客を
運んでいる外にはまったく船らしいものの影もみえない。
わたしは提げてきた正宗の罎を口につけて喇叭飲みしながら
潯陽江頭夜送レ客、楓葉荻花秋瑟々
酔いの発するままにこえを挙げて吟じた。
そして吟じながらふとかんがえたことというのはこの蘆荻の生しげるあたりにもかつては
白楽天の琵琶行に似たような情景がいくたびか演ぜられたであろうという一事であった。
江口や神崎がこの川下のちかいところにあったとすればさだめしちいさな葦分け舟をあやつりながら
ここらあたりを徘徊した遊女も少くなかったであろう。