『草あやめ』 著:泉鏡花 より一部抜粋 赤字が出題された箇所
二丁目の我が借家の地主、江戸児にて露地を鎖さず、裏町の木戸には無用の者入るべからず
と式の如く記したれど、表門には扉さへなく、夜が更けても通行勝手なり。
但知己の人の通り抜け、世話に申す素通りの無用たること、我が思もかはらず、
然りながらお附合五六軒、美人なきにしもあらずと雖も、濫(みだり)に垣間見を許さず、
軒に御神燈の影なく、奥に三味の音の聞ゆる類にあらざるを以て、
頰被、懐手、湯上りの肩に置手拭などの如何はしき姿を認めず、
華主まはりの豆府屋、八百屋、魚屋、油屋の出入するのみ。
朝まだきは納豆売、近所の小学に通ふ幼きが、近路なれば五ツ六ツ袂を連ねて通る。
お花やお花、撫子の花や矢車の花売、月の朔日十五日には二人三人呼び以て行くなり。
やがて足駄の歯入、鋏磨、紅梅の井戸端に砥石を据ゑ、
木槿の垣根に天秤を下ろす。目黒の筍売、雨の日に蓑着て若柳の台所を覗くも床しや。
物干の竹二日月に光りて、蝙蝠のちらと見えたる夏もはじめつ方、一夕、出窓の外を美しき声して
売り行くものあり、苗や玉苗、胡瓜の苗や茄子の苗と、其の声恰も大川の朧に流るゝ今戸あたりの二上りの調子に似たり。
一寸苗屋さんと、窓から呼べば引返すを、小さき木戸を開けて庭に通せば、潜る時、笠を脱ぎ、
若き男の目つき鋭からず、頰の円きが莞爾莞爾して、へいへい召しましと荷を下ろし、
穎割葉の、蒼き鶏冠の、いづれも勢よきを、日に焼けたる手して一ツ一ツ取出すを、
としより、弟、またお神楽座一座の太夫、姓は原口、名は秋さん、呼んで女形といふ
容子の可いのと、皆縁側に出でて、見るもの一ツとして欲しからざるは無きを、初鰹は買はざれども、
昼のお肴なにがし、晩のお豆府いくらと、先づ帳合を〆めて、小遣の中より、
大枚一歩が処、苗七八種をずばりと買ふ、尤も五坪には過ぎざる庭なり。
【解説】
〇蓑/簑(みの) ・・・ 蓑は簑とも書く。<詳細>