『悟浄歎異』 著:中島敦 より一部抜粋 赤字が出題された箇所
我々にはなんの奇異もなく見える事柄も、悟空の眼から見ると、ことごとくすばらしい冒険の端緒だったり、
彼の壮烈な活動を促す機縁だったりする。もともと意味を有った外の世界が彼の注意を惹くというよりは、
むしろ、彼のほうで外の世界に一つ一つ意味を与えていくように思われる。
彼の内なる火が、外の世界に空しく冷えたまま眠っている火薬に、いちいち点火していくのである。
探偵の眼をもってそれらを探し出すのではなく、詩人の心をもって(恐ろしく荒っぽい詩人だが)彼に触れる
すべてを温め、(ときに焦がす惧れもないではない。)
そこから種々な思いがけない芽を出させ、実を結ばせるのだ。
だから、渠・悟空の眼にとって平凡陳腐なものは何一つない。
毎日早朝に起きると決まって彼は日の出を拝み、そして、はじめてそれを見る者のような驚嘆をもってその美に感じ入っている。
心の底から、溜息をついて、讃嘆するのである。これがほとんど毎朝のことだ。
松の種子から松の芽の出かかっているのを見て、なんたる不思議さよと眼を瞠るのも、この男である。
この無邪気な悟空の姿と比べて、一方、強敵と闘っているときの彼を見よ! なんと、みごとな、完全な姿であろう!
全身些かの隙(すき)もない逞しい緊張。律動的で、しかも一分のむだもない棒の使い方。
疲れを知らぬ肉体が歓び・たけり・汗ばみ・跳ねている・その圧倒的な力量感。
いかなる困難をも欣んで迎える強靱な精神力の横溢。
それは、輝く太陽よりも、咲誇る向日葵よりも、鳴盛る蝉よりも、
もっと打込んだ・裸身の・壮んな・没我的な・灼熱した美しさだ。
あのみっともない猿(さる)の闘っている姿は。
一月ほど前、彼が翠雲山中で大いに牛魔大王と戦ったときの姿は、
いまだにはっきり眼底に残っている。感嘆のあまり、俺はそのときの戦闘経過を詳しく記録に取っておいたくらいだ。
【解説】