『客居偶録』(かっきょぐうろく)  著:北村透谷    赤字が出題された箇所


     其一 旅心

暫らく都門(ともん)熱閙(ねっとう)の地を離れて、身を閑寂たる漁村に投ず。

これ風流韻事(いんじ)の旅にあらず。

自から素性を養ひて、心神の快を取らんとてなり。

わが生、()と虚弱、加ふるに少歳、生を軽うして身を(やぶ)りてより、功名念絶えて唯だ好む所に従ふを事とす。

不幸にして籍を文園に投じ、猜忌(さいき)の境に身を(さしはさ)めり。

斯の如きは素願にあらず、(ねがわ)くは名もなく誉もなき村人の中に交りて、わが「真村」をその幽囚より救はんか。


     其二 夏休

天の炎暑を(つかさど)る、必らずしも人を苦しむるのみにあらず。

居常唯だ書籍に埋もれ、味なき哲理に身を呑まれて、(いたず)らに遠路に(あえ)ぐものをして、

忽焉(こつえん)、造化の秘蔵の巻に向ひ不可思議の妙理を豁破(かっぱ)せしむるもの、夏の休息あればなり。

学校より帰る人は、久しく疎遠なりし父兄の情を温め、官省の職務より離るゝものは、

家を携へて適好の閑を消す、斯くの如きは夏の恩恵なり。

ひとり文界の浪士のみ之を占むるにあらず、無名の詩人、無文の歌客、こゝやかしこにさまよふめり。


     其三 村家

 わが来り投ぜしところは、都門を離るゝ事遠からずと(いえども)、又た以て幽栖(ゆうせい)の情を語るに足るべし。

これ唯だ海辺の一漁村、人烟稀にして家少なく、数屋の茅檐、燕来往し、一匹の小犬全里を護る。

濤声松林を洩れて襲ひ、海風清砂を渡つて来る。

童子の背は渋を引きたる紙の如く黒く、少娘の嬌は半躰を()らわして外出するによりて損せず。

雄鶏昼鳴いて村叟の眠を覚さず、野雀軒に戯れて児童の之を追ふものなし。

前家に碓舂(たいしょう)の音を聴き、後屋に捉績(そくせき)の響を聞く。

人朴にして笑語高く、食足りて歓楽多し。都城繁労の人を(うらや)(なか)れ、人間縦心(しょうしん)の境は(なんぢ)にあり。


     其四 暁起

一鴉鳴き過ぎて、何心ぞ、我を攪破(かくは)する。

(たちま)ち悟る人間十年の事、()べて非なるを。

指を屈すれば友輩幾個白骨に化し、壮歳久しく停まらざらんとす。

()く者は()()からず。

来る者は未だ頼み難し。

友を憶へば零落の人、親を思へば遠境にあり。

寝を出て襟を正して端然として坐す。

この身功名の為に生れず、又た濃情の為に生れず、筆硯を顧みて暫らく撫然たり。


     其五 乞食

天の人に対する何ぞ厚薄(こうはく)あらん。

富めるもの(おご)()からず、貧しきもの何ぞ自ら()づるを(もち)ひん。

額上の汗は天与の黄金、一粒の米は之れ一粒の玉、何ぞ金殿玉楼の人を羨まむ。

唯だ(あわ)れむべきは食を乞ふの人。

天の彼を罰するか、彼の自ら罰するか、韓郎の古事、世に期し難く、靖節(せいせつ)の幽意、人の悟ることなし。

夕陽西に傾いて戸々の炊烟(すいえん) (ようや)く上るの時、一群の村童、奇異の旅客を(まと)ふて来る。

只だ見る粗造の木車一輛(いちりょう)、之を挽ひくものは五十に余れる老爺(ろうや)、之に乗るものは、十歳ばかりも他に増さるべし、

乗るものは小鼓を打つて題目を()し、挽くものは家に就いて喜捨(きしゃ)を仰ぐ。

髪は霜に打たれし(よもぎ)の如く、衣は垢に(まみ)れて臭気高し。

われは爾時(じじ)晩食(ばんしょく)喫了(きつりょう)して戸外に出で、涼を()いれて散策す。

此の躰を見て惆悵(ちゅうちょう)として去る(あた)はず、熟視すれば乗者の衣は三紋の、あはれ昔時(せきじ)を忍ぶ会津武士、

脚は破衣を脱して(あら)はるゝところ銃創を印し、眼は空しく開けども明を見ず。

側目(そくもく)して両者を視れば、むかしながらの義は堅く、主の車を推して主の食を乞ひ、はるばると西国の霊塲(れいじょう)に詣づるものと覚えたり。

(ああ)、当年豪雄の戦士、官軍を悩まし奥州の気運を支へたりし快男子、

今は即ち落魄(らくはく)して主従唯だ二個、異境に彷徨(ほうこう)して漁童の嘲罵に()ふ。

(しか)も主は僕を捨てず、僕は主を離れず、木車一輛、山海を越えて百里の外に旅す。

()むべきかな会津武士、この気節(きせつ)(もっ)(しこう)して(かく)(ごと)し、深く人間を学ぶに堪えたり。

蝉羽子(せんうし)悄然(しょうぜん)として立つこと少時、(かれ)を招きて(とも)に車を推し、之を小亭に引きて飯を命じ、

鮮魚を(さい)して食はしめ、未だ言を交ゆる事多からず、其の旧事を回想せしめん事を恐るればなり。

われ先づ去る、去る時語なく、無限の情あり。


     其六 海浴

 酒にあらず、色にあらず、人生憂を鎖するの途、(あに)少なからんや。

炎熱()くが如く樹葉皆な下垂するの時、海に下りて衣を脱すれば涼気先づ来る。

浪高く小砂を転じ、(たちま)ち捲いて忽ち落つ、之れを見て快意そゞろに生じ、

身を(ひるがえ)して浪上にのぼれば、自から虚舟の思あり。手を抜いて躰を進むるに心甚だ壮なり。

濤声うしろに響いて気更に昂り、疲倦するまで還るを忘る。

惜しいかな旅嚢(りょのう)バイロンの詩集を携へず、その游泳の歌をこの浪上に吟ずるを得ざるを。


     其七 初月

 黄昏(たそがれ)家を出で、暫らく水際に歩して()た田辺に迷ふ。

螢火漸く薄くして稲苗(まさ)に長ぜんとす。

涼風葉を(うご)かして湲水(かんすい)音を和し、村歌起るところに機杼(きじょ)を聴く。

初月楚々として西天に懸り、群星更に光甚を争ふ。

(はるか)に濤声を聴くは楽を奏するを疑ひ、仰いで天上を視れば画を()ぶるが如し。

歩々人境を離れて天景に赴く、人間(じんかん)この味あり、(いずく)んぞ促々(そくそく)として功名の奴とならむ。


     其八 憶友

 都を出る時、友ありて病に臥す。

彼は堅実の一学生、学成りて躰(ここ)に弱し、病を得て数月未だ()ゆるに及ばず、痩癈(そうはい)せば遂に如何(いかん)

われ尤も之を憶ふ。

 都を出る時、遠く西方に旅する友と約するあり、東海道の某地を卜して相会見せんとす、期する日は明後、

彼は西より来り、我は東よりせん、相見る時、情奈何(いかん)

われ尤も之を憶ふ。

 之を憶ふに、一は悲しく、一は楽し、「悲楽」本来何者ぞ。

(ほしいまま)に我が心胸に鑿入(さくにゅう)して、わが「意志」の命を仰がず。


     其九 晩食

 詩客元来淡菜を愛す。

酢味糟(すみそ)あらば、と吟じたる俳客の意、自から分明なり。

(ここ)に鮮魚あり、又た鮮蔬(せんそ)あり、都城の豊肉何ぞ思ひ願ふことを要せむ。

市ヶ谷の詩人、今如何。

「三籟」紙面の趣味、之を此の清淡に比して如何。


     其十 漁獲

 今朝、漁師急馳して海に出で、村媼(そんおう)囂々(ごうごう)として漁獲を論ず。

(ひる)を過ぐる頃、先づ(かえ)るの船は吉報を(もた)らし来る。

之に次ぐものは鰹魚を積んで帰り、村中の老弱海浜に(あつ)まる。

此日は之れ当年第一の夏漁、(やが)て見る村童頻々として来往し、人々一尾を携へざるなく、家々鮮肉を味はざるなし。

漁家にあらざるもの僅かに三戸、而して村情隣を捨てず、価なくして亦た挙家の鼓腹あり。

全邑(ぜんいふ)今日鮮魚に飽く、之を東都の平等先生に告げて、与にこの歓喜の情を讃めなば、如何にぞや。


     其十一 言語

 村家に就きて言語を査するに、親子兄弟一様なる語調あり。

われは平生、我が国語の自から階級的なるを厭ふもの。

之を思ひて(ひそ)かに悟るところあり。


     其十二 蝉声

 ゆふべの風に(さきだ)ちて(すだれ)を越え来るものは、ひぐらしの声、寂々として心神を(とか)す、

之を聴く時(おのず)から山あり、自から水あり。

家にありて自から景致の裡にあり。

団扇(うちわ)を握つて窻前(そうぜん)に出れば、既に声を収めて他方に飛べり。

 (明治二十六年七月)


【解説】

都門(ともん)・・・都の入り口。また、都のなか。都。都会。

熱閙(ねっとう)・・・あわただしく動き回っている状態。

幽栖(ゆうせい)・・・俗世間から離れてひっそりと暮らすこと。また、その住居。

茅檐(ぼうえん)・・・ (「檐」は軒(のき)・庇(ひさし)の意) 茅(かや)ぶきの家の軒。転じて、茅屋。あばらや。

攪破(かくは)・・・かき乱し破ること。

村媼(そんおう)・・・村の老女。いなかの老女。

旅嚢(りょのう)・・・旅行のとき必要な物を入れて持っていく袋。



漢検の出題:平成24年度(2012年) 第1回 準1級 (十)〔文章問題〕



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