『自然と人生』 著:徳冨健次郎(徳富蘆花) 赤字が出題された箇所
『自然と人生』「湘南雑筆」-「夕山の百合」
夕方後山に登る。夕風青茅を戦がして、百合の花の香其處はかとなく漂ひ、丘上にしょんぼり月の影あり。
日は大山の右に入りて、残曛猶明らかに、金樺色の横雲ありて、宛ら彩旛の翻れる如く、西より北に横たふ。
富士は薄き藍色の暮雲を抽ぎてほのかに其頂を露し、海は紫を流して、一帆徐ろに其面を移り行く。
村の方を望めば、此頃まで村と村との間に照り渡りし麥は何時か苅られて、其あと黒く、田は半植へられて、
緑ほのかなる新秧の田と、水のみ白き未挿の田と入り乱れ、一條の川帯の如く其中を洄りて白く光りぬ。
麥苅られて、緑樹の村いよいよ闇らし。其處にも、此處にも、麥わら焼く煙立のぼる。
ぷちぷち音するは、稈の焼くるなり。煙の本に紅の火閃くは、風ありて煽れるなり。
見る見る煙は村を包み、山を侵して、黄昏は其中より湧きぬ。蛙声風にのりて聞ふ。
暮れて、山を下れば、徑を夾む青茅の一色に青黒きに、點々たる百合の花、朧夜の星の如く、ほの白う暮れ残りぬ。
風そよそよとして、夕山の香袂に満つ。
山の端に月光り初めぬ。
(〔明治三十一年〕六月十三日)
出典:『自然と人生』〔原典:民友社 明治33年8月18日発行〕 著者:徳富蘆花
ワイド版岩波文庫264 平成17年(2005年)12月16日発行
「湘南雑筆」-「夕山の百合」 P.183
漢検の出題:平成27年度(2015年)第1回 準1級(十)〔文章問題〕