『みゝずのたはこと』 著:徳冨健次郎(徳富蘆花) より一部抜粋 赤字が出題された箇所
低い丘の上から
二
三鷹村(みたかむら)の方から千歳村を経て世田ヶ谷の方に流るゝ大田圃の一の小さな枝が、入江の如く
彼が家の下を東から西へ入り込んで居る。
其西の行きどまりは築き上げた品川堀の堤の藪だたみになって、其上から遠村近落の樫の森
や松原を根占にして、高尾小仏から甲斐東部の連山が隠見出没して居る。
冬は白く、春は夢の様に淡く、秋の夕は紫に、夏の夕立後はまさまさと青く近寄って来る山々である。
近景の大きな二本松が此山の鏈を突破して居る。
此山の鏈を伝うて南東へ行けば、富士を冠した相州連山の御国山から南端の鋭い頭をした
大山まで唯一目に見られる筈だが、此辺で所謂富士南に豪農の防風林の高い杉の森があって、
正に富士を隠して居る。
少し杉を伐ったので、冬は白いものが人を焦らす様にちらちら透いて見えるのが、却て懊悩の種になった。
あの杉の森がなかったら、と彼は幾度思うたかも知れぬ。
然し此頃では唯其杉の伐られんことを是れ恐るゝ様になった。
下枝を払った百尺もある杉の八九十本、欝然として風景を締めて居る。
斯杉の森がなかったら、富士は見えても、如何に浅薄の景色になってしまったであろう。
春雨の明けの朝、秋霧の夕、此杉の森の梢がミレージの様に靄から浮いて出たり、
棚引く煙を紗の帯の如く纏うて見たり、しぶく小雨に見る見る淡墨の画になったり、
梅雨には梟の宿、晴れた夏には真先に蜩の家になったり、雪霽には
青空に劃然と聳ゆる玉樹の高い梢に百点千点黒い鴉をとまらして見たり、
秋の入日の空樺色に曛ずる夕は、濃紺濃紫の神秘な色を湛えて
梢を距る五尺の空に唯一つ明星を煌めかしたり、彼の杉の森は彼に尽きざる趣味を与えてくれる。
【解説】