チャイナ史の呼称 その1


 三国志で魏の曹操が、呉を攻めようと百万の兵を率いて向ったとき、

 曹操は全軍に「赤壁で呉を討つ!」と号令を掛けた。

 実は、これは(おか)しい。

 「赤壁」の名称は、呉の火攻めによって、岩壁が真っ赤に燃えたことに因り後世の史家が付けたもの。

 戦後に付いた名称。

 「赤壁へ行く」とは、「江南へ負けに行くぞ!」と叫んでいることになる。(笑)


 では元々の名称とは、何だったのか?

 それは無い。

 恐らく、「洞庭湖から東へ100km下った場所」ぐらいなものだ。



 同じく三国志で、劉備の軍師の一人、龐統(ほうとう)(しょく)を攻めるときに「落鳳坡を通ります」と劉備に告げる。

 これも(おか)しい。

 「落鳳坡(らくほうは)」と云う名称は、龐統が矢に当って命を落としたので、後世の史家が付けたものだ。

 「落鳳坡を通ります」とは、「私、矢に当りに行きます」と宣言していることになる。(笑)


 龐統は「鳳凰」と呼ばれ、諸葛亮孔明と並んで稀代の智者と仰がれた人物。

 その鳳凰が命を落とした谷間(たにあい)なので、「落鳳坡」と名付けたのだ。


 では元々の名称は、あったのか?

 これまた、無い。



 「赤壁」「落鳳坡」は、元々無名の場所である。

 しかし、作者としては、なんとか場所を特定したい。

 そうする方が、身近に感じられ、迫力が沸く。

 読者が後日そこを訪れようとするだろうし。


 そう考えると、たとえ矛盾していても、「赤壁」や「落鳳坡」と呼んでしまうしかないか。(笑)

 成程(なるほど)、後世の史家は、悩んだ挙句、大らかに決断したのだろう。


 しかし、これは少し説明を書いといて貰いたいものだ。

 読者は、混乱する。



 <続き その2>





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