チャイナ史の呼称 その2


 今、アニメでも有名な「始皇帝」。

 チャイナ史上初の「皇帝」と云う意味である。

 皇帝とは、各国王の上に立つ者の意。


 春秋戦国時代では、百の国が割拠し、戦争が約四百年繰り返され七国が残った。

 秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓で、世に云う戦国七雄である。

 紀元前221年、秦が天下統一したことで戦国時代に終止符を打った。

 この時の秦の王・嬴政(えいせい)が、史上初の皇帝となった。


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  ( 皇帝は、冕冠(べんかん)と云う特別の冠を被る。 )


 史上初の皇帝なら「初代皇帝」で良さそうなものだが、それでは迫力に欠ける。

 後世の史家は、特別な意味を持たせたかったのだろう、「始皇帝」と呼んだ。

 では、二番目の皇帝は誰か?

 それは嬴政が崩御(ほうぎょ)した後に即位した息子の胡亥(こがい)である。

 しかし、胡亥の三年目(前207年)に劉邦(りゅうほう)により滅ぼされた。

 (始皇帝から数えても、僅か十五年だった。)


 この劉邦が、「漢」の時代を興し、史上三番目の皇帝となるのだが、二番目の皇帝以後、二代目だの三代目などと

 呼ばないし、史書にも見当たらない。


 劉邦は、「高祖(こうそ)」と呼ばれる。

 劉邦は、チャイナ史上最も長い時代を誇った「漢」の時代を興した特別の人である。

 「第三代皇帝」では、時代に名を刻んだ印象が薄くなるし、迫力に乏しい。

 史家は、「高祖」と呼ぶことを選んだ。


 チャイナ史上、「始皇帝」も「高祖」もただ一人しか存在しない呼称なのである。

 それは良いが、後世の人々は混乱する。


 チャイナ史家は、読者に分かり易くする為なのか、(ある)いは、当時の英雄を自慢したいだけなのか。

 歴史の晦冥(かいめい)余所(よそ)によく使う。


 前回説明した「赤壁」「落鳳坡」も迫力を加える為に、矛盾(むじゅん)を承知で使った。

 これらは、同質の思想である。

 チャイナ史を学ぶ上で、ちょっと留意しておくべき豆知識ではないか、と思う。



 <追記>

 実は、初めて「皇帝」を名乗ったのは嬴政ではない。

 嬴政の曾祖父・昭襄王(しょうじょうおう)は、「遠交近攻」策により、遠方の斉、燕、楚と(よしみ)を通じ、隣国の韓、魏、趙を攻めた。

 そして、紀元前288年に昭襄王は、自分は西の皇帝「西帝」を称し、大国斉の湣王(びんおう)に「東帝」を名乗る様、提案し、

 冕冠(べんかん)を贈った。

 このとき、チャイナ史上初めて「皇帝」が出現しているのだが、二人とも直ぐに止めている。


【解説】

〇 劉邦 (りゅうほう)

  正式には廟号(びょうごう)太祖(たいそ)諡号(しごう)高皇帝(こうこうてい)であるが、通常は高祖(こうそ)と呼ばれることが多い。


〇 昭襄王 (しょうじょうおう)

  チャイナ戦国時代の秦の第28代君主。「昭王」「秦昭王」とも呼ばれる。 姓は嬴(えい)、諱は稷(しょく)。

  悼太子・孝文王(安国君)の父。始皇帝(嬴政)の曾祖父。


〇 「遠交近攻(えんこうきんこう)」策

  後に秦の丞相(じょうしょう)となった范雎(はんしょ)が提案した対外政策。

  遠方の国と(よしみ)を結び、隣国を攻めることで、昭襄王はこれに従い、遠方の斉、燕、楚への攻撃をやめ、

  隣国の韓、魏、趙の三国を攻撃した。


〇 冕冠 (べんかん)

  冠(正式には「冕(かんむり)」)の材質やサイズ、その前後につける(すだれ)の玉の本数に決めがあったらしい。

  一説には、天子の簾の本数は前後各十二本であるに対し、諸侯は九本、卿大夫は七本或いは五本だったとか。



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