呂蒙は、なぜ急死したのか?  第四話


三国志時代、周瑜(しゅうゆ)は、言わずと知れた「赤壁の戦」で呉を大勝利に導いた功労者。

勇猛果敢で有ると同時に、軍略に()けた(まさ)しく文武両道の将軍だった。


しかし、自尊心が強い上に、度量が狹い性格だった。

その性格のせいで、軍略では自分を遥かに凌ぐ諸葛亮孔明の存在が許せなかった。

更に、「赤壁の戦」の後も、図々しく荊州(けいしゅう)に居座っている劉備軍が、腹に据えかねていた。


荊州に関しては、君主・孫権と魯粛(ろしゅく)も同じ気持ちであったが、孫劉連盟は維持したい。

だから、劉備軍と武力による争いは避け、外交で解決したい意向だった。

この点が、周瑜と異なった。



魯粛は、孫権に成り代わって再三周瑜を(いさ)めたが、聞き入れられなかった。

周瑜は孫権の意向を無視して、再三劉備軍を攻めたが、孔明の策略に辛酸を舐めた。

そして、荊州を取り返せぬままこの世を去った。


その周瑜に付き従ったのが呂蒙(りょもう)

周瑜を畏敬しており、同じ様に劉備や孔明、関羽、張飛を憎んだ。



数年後、呂蒙は、荊州を守る関羽を策略に落とし、捕虜とした。

孫権から、絶対に、関羽を殺してはならないと厳命されていたにも拘わらず、関羽を斬首した。

そして、天の周瑜に向って、号泣した。


呂蒙は、勇躍して建業(呉の都)へ戻り、孫権に関羽の首を献上した。

孫権は、上辺(うわべ)は呂蒙を(ねぎら)ったが、内心、忸怩(じくじ)たる思いであった。


関羽は、劉備、張飛と共に「桃園(とうえん)の誓」で義兄弟の(ちぎ)りを結んだ男である。

劉備が怨念(おんねん)を晴らさんと、大軍で呉を攻めて来ることは火を見るより明らかだ。

孫権は、それを危惧(きぐ)したのだ。


数日後、呂蒙は、自宅で急死した。

巷間(こうかん)、孫権が毒殺したのではないかと噂された。


【追記】

君主や丞相などのトップが、腹心の功労者を死に追いやった例は多い。

越王・句践が、功労者の文種を自殺に追い込み、魏の曹操が、荀彧に自殺を迫った例がある。

今回の呂蒙の例は、前例と異なる。

私が、孫権でも、命令に背いた呂蒙を生かしては()かない。


 しかし、孫権は、同じ様に命令に背いた周瑜に対して、罪を不問に付し、遺族を厚遇した。

 呂蒙は、この前例に期待したのだろう。

 だが、周瑜は、孫権の兄・孫策と親友であり、建国の功労者である。孫権は兄同様に慕っていた。

 この点が周瑜と呂蒙では異なった。


 周瑜は、遺言で大都督に魯粛を推挙した。

 大都督に就いた魯粛は、呂蒙に「武力一辺倒でなく、軍略に明るくなくてはならない」と諭した。

 その後、呂蒙は猛勉強をした。その勉強振りを評した言葉が「男子三日会わざれば刮目して見よ」である。



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